第48話「岡山メーデー事件 in カッフェー・ブラジル!」


大正11年5月1日

岡山で最初の本格的喫茶店「カッフェー・ブラジル」が、その名を全国へ轟かす事件は起こった。
マスコミを通じて全国の人々にその名を知らしめた喫茶店としては、おそらくこの岡山の「カッフェー・ブラジル」が日本で最初ではなかろうか?

日本で最初のメーデーは、東京・上野公園で開かれた大正9年であった。

それに続いたのが大阪、京都、名古屋であり、岡山はそのすぐ後の翌年大正10年、日本で5番目に開催、もちろん地方ではトップを切ったもので、進歩的を自認する岡山っ子がおおいに自慢したようである

そうはいっても最初の年のメーデーは、ささやかなものだった.....

しかし、翌年の大正11年のメーデーは、ある意味で、たいそう派手にやらかしたのだった...


会場は当時の文化人の集まる場所「カッフェー・ブラジル」があてられた

しかし、大正11年の春頃から、社会主義者に対する官憲の圧迫がしきりで、メーデーが近づくにつれて前年誕生した国粋会がメーデーを叩きつぶすために用意をしているとデマが飛び、岡山のメーデーは不穏な雲行きに閉ざされていたのだった

ついに5月1日がやってきた

官権を笠にきた右翼団体が小野松之助の家に多数集まって、四斗樽の鏡を抜いて元気をつけていた

ただでは収まりそうもないと、噂がうわさを呼んで各新聞社ではそれぞれ腕利きの記者を待機させていたのだった...

午後7時、カッフェー・ブラジルの2階の大広間には、社会主義者、自由主義者など、そうそうたるメンバーが約40人程集まり、会場には殺気立った緊張した空気がみなぎっていた...

定刻になると司会役の余公芳太郎氏が立ちあがり、名調子で

『諸君! 本日は全世界の労働者の祝福すべき.....』と、演説を始めかけた

まさにそのとき、隣の部屋で飲んでいた連中が突然仲間喧嘩を始め、口論から格闘に及び、その一団がドヤドヤとメーデーの会場になだれ込んできたのだった

すると、間髪を入れず

『なに〜...! 喧嘩だと〜...!!』

と、大声で喚きながら、小野松之助を先頭に2階へ掛け上がってきた一群が、これまた会場になだれ込んだ

怒号はつのり、鉄拳の嵐、木刀の唸り

逃げ惑うメーデー組を追いかけての乱暴狼藉

またたくまに、メーデー組は四散してしまったのだった...

多数の警察官も交じった国粋会の面々は、万歳を連呼しながら引き上げてしまった

世論もあまりの右翼暴力団のやり方に反感が高まり、特に労働者は国粋会が陳謝せねば腕ずくでもと意気込み出した

もう新聞も黙っておれなくなった

全国的に大げさに報道されたから物情騒然となった、と同時に「カッフェー・ブラジル」の名前も全国に響き渡る結果となった

全国に知れたものだから、九州の炭鉱夫がダイナマイトを持って押しかけてくるとか、東京の青年黒色党が岡山へ潜入したとか、ほうってはおけない状況となってきたのだった

結局、この話しは、左翼のボス、石原伊之吉が仲裁役をつとめ、国粋会の責任者に罰金30円でケリがついたのであった


「こんなふうに、カッフェー・ブラジルは、その時代の進歩的な人々の良き情報交換の場であり、文化形成の舞台となったんだ。まるでヨーロッパのコーヒーハウスのようにね!」

「当時の岡山に来ていた外人さんは、このカッフェー・ブラジルをひいきにしてましたんやろか?」

「そんなことが書かれた資料はみつかってないよ...あまりいなかっただろうしね...
 でもねえラッキー、当時、世界へ目を向けていた人々のこんな歴史をみつけたよ!

大正9年12月17日夜

難波をはじめ六高、岡中のメンバー十数人が、岡山市上ノ町西裏のカッフェー・ブラジルに集まった。

協議の結果、文句なく、『岡山エスペランチスト会』を創立した。

                                     「岡山文庫 岡山のエスペラント」より


 

こんなふうに、世界の人とコミュニケーションをとりたいと夢見ていた人達も、カッフェー・ブラジルで会を創設したんだ...

この会に大きな功績を残した、仁科圭一さんと「岡山のエスペラント」の著者でもある岡太一さんが、カッフェー・ブラジルでくつろいでいる写真がみつかったよ! 


  岡山文庫 岡山のエスペラント P-123 より 右が仁科さん左が岡さんです

「どう ラッキー? 柔らかい陽射しのせいで、店内がほのぼのとした雰囲気に包まれているよね...」

「ほんま、ええ雰囲気ですがな! 全部の机に植木鉢がおいてあるし、でかい砂糖入れもなかなか味があってええでんな〜! 今でも、流行りそうでんがな! コーヒーと一緒に食べているのはケーキですかな? なんぼぐらいしたんやろか?」

「知りたい?」

「ということは、なんか見つけたんやな?!」

「そう! 片っ端からページをめくって捜し捲った結果、ついにというか、偶然みつけたんだ!
 昭和7年のカッフェー・ブラジルのメニューだよ!」


この資料の名称を控えることを忘れてしまいました
再度、図書館へ確認にいきましたが、あまりに沢山の
資料の為、再度見付け出すことができませんでした
多くの方に見ていただきたかったので掲載しました

著作権上の問題があるようでしたらタカシまでご指摘ください


「見えるかな〜? 定食なんて、料理3品にコーヒー&パンそしてデザート付きや!」

「1日1奉仕品として、11時から14時まで格安で出してまんのは、今で言うランチやな!
 あたりまえのようにどこでもやってるランチサービスが、この頃からあったなんてびっくりや!

 それにしても、舶来のコーヒーがライスといっしょの5銭とは、安すぎちゃう?
 サイダーは15銭、ビールは40銭もしてまっせ〜...?」

「そうそう、そのからくりは、歴史家の岡長平さんの岡山始まり物語にこう書いてあるんだ...

コーヒーは本物のブラジル産で、少しヒンが悪いが、とても香りの高いものだった。砂糖は出しっ放しで、勝手放題に入れさせる、それで、1杯が5銭なのである。しかも、何時間頑張ろうと、ちっとも文句を言わんのだから、この5銭客が、時間つぶしに押しかけたもんだ。六高生なんか、暑いときは扇風機の下、寒いときはストーブのそば、どちらも一つしかないのに、これを我が物顔に占領して、備え付けの新聞、雑誌を片っ端から目を通した末、懐から持参の本を出して、読みふけるんだから、始末が悪い。ほとんどの六高生は耳の穴を5銭白銅で蓋をして、夕方になると、大挙して散歩に出たもんだ。目指すところは、ブラジルだった。

これで、よう店が立ち行くもの............と、不思議に思っていたら、ブラジル政府がコーヒー宣伝の為に、多大の補助金を出しているんだと、聞かされた。だが、5銭のコーヒーで客を釣っているうちに、洋食やビールの客もくるようになり、2階が大広間なので、ほかにないから、大宴会が全部ここにくるようになった。2〜3年して、ブラジル政府の補助金が来なくなっても、立派に商売が成り立ち、だいぶもうけているらしいと、世上のウワサになっていた。
つまり、損して得とれの、生きた見本だといわれたものである。

岡長平著 岡山始まり物語 P-182.183より

「ブラジル政府からの補助金となっているけど、これは、パウリスタの水野さんの功績の、無償供与だと思うんだけど...どう思うラッキー?」第34話を参照して下さい 34話へはこちら!

「そうやね、時期的にも一致しますし、まず、まちがいないやろね!」

「水野さんの功績がこんなところで岡山に影響を与えてたんだ!
 おそらく5銭という庶民価格でなければ、六高生や社会派の労働者が集うこともなかったはずだよね?

 様々な要因で『カッフェー・ブラジル』こそが、岡山のコーヒー文化発祥の喫茶店に決定だね!」


一つ前へ

目次

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さてさて、岡山での珈琲物語はこのあたりまでとして、いよいよ倉敷に突入です!

倉敷人で最初に珈琲を飲んだのは誰? それは、どこで飲んだの?
倉敷の地で、初めて珈琲を飲んだのは誰?どこ?
倉敷の最初の喫茶店はなんて言う名前? どこにあったの?
倉敷の人々に親しまれたエポックメイキング的な喫茶店とはどこ?

こんな歴史を求めてさらに旅は続くのでした...