第34話「カフェーパウリスタ-その2」
「そういうことなんやけど、この水野さんちゅ〜人はほんまに欲のない人でな、集会があると聞けばすぐに出かけて行き、試飲会を設けてはコーヒーの良さを知ってもらうように頑張りはったんや!」 「少しでも多くの人にコーヒーの味を知ってもらいたい一心で、無料コーヒーサービスを続けたんだね?」 「その上、宣伝をすること、普及をさせることをブラジル政府と約束してたから、採算など後回しで、とにかく日本中の人にコーヒーを知ってもらいたいと、あっという間に全国に支店を開設しはったんや!」 「どこに何店舗ぐらい店をだしたの?」 「正確にはわかれへんのやけど、約4〜5年の内に22店舗もの店を出したといわれてますねや。」 「場所はわからへんの? 岡山にも水野さんが進出したの? 「わての記憶には岡山という文字は存在してへんで〜?
「どや! すごいやろ! コーヒー研究家の伊藤博先生は著書<コーヒー博物史>の中で、次のようにパウリスタの残した業績を評価されてます。 それは、大きく2つの業績にまとめられます。 まず1つ目は、コーヒーを大衆でも楽しめる5銭という安い値段で提供し、コーヒーの消費の拡大に貢献した点。 そしてもう1つは、全国主要都市に支店を開設し、市場開拓の原動力になった点や。 パウリスタのこうした実績がなかったら、昭和初期に全国主要都市に数多くの喫茶店が開業することはなかったっちゅうわけやな!」 「それからどうなったの?」 「さあ〜これからという大正12年、ブラジルからの無償供与の期限が切れてしまいます。 水野龍氏は震災の翌年大正13年、会社を辞職しブラジルのパラナ州に移住し農業に携わりました。 その後、資金調達のため再び帰国しますが、太平洋戦争勃発のため日本に10年もの長いあいだ滞在を余儀なくされ、昭和25年5月、やっとサンパウロに帰ることが許可されました。 やっと家族の待つサンパウロに帰って幸せに過ごせる境遇となったのに、翌年の昭和26年8月14日家族に見守られながら安らかに永眠しました。享年92歳でした。」 コーヒーに命を賭けた男でした。 コーヒー好きの日本人に覚えて欲しい名前です... |
さて次回からは、地元岡山の珈琲物語が始まります。
岡山県人で最初に珈琲を飲んだのは誰か?どこで飲んだのか?
岡山県内で最初に珈琲を飲んだのは誰か?それはどこでか?
岡山最初の喫茶店はどこにあったの?なんていう名前のお店?
などなど.....さて本当にそんなこと解ったのでしょうか?