「たしか、このあたりだったんじゃが...?」
「いいや、もっとこっちのほうじゃったろう〜」
「いやいや、ぜったいここじゃった! ちょどこの辺が入口じゃったんじゃ!」
こんな、やり取りが聞こえてきそうな、ある1枚の写真をみつけました。
『おかやまを語る-岡山の残影』
『おかやまを語る会』編、岡山市立中央図書館発行のこの本の中に、昭和62年11月下旬に試みられたおかやまを語る会の現地探訪の際の『カフェー・ブラジル』跡を訪ねての写真が掲載されていたのでした。
このおかやまを語る会の方々のおかげで、私はカフェー・ブラジルの詳細について確認することができたのです。現地探訪でのエピソードを、語る会の一人、桑島一男さんは「岡山文庫-岡山の表町」の中で次のように書かれています。
戦前六高生のたまり場でもあり、岡山の知識青年が一度は足を踏み入れたであろうはずの有名な上之町の「ブラジル」の位置についても、この日の探訪では議論が百出。何度も現実にその店へ通ってその頃ではまだ珍しかった角砂糖をたんまりちょうだいに及んだと白状したご当人ですら、たしかこのあたりだったかなぁ〜と、いざ現場に立つといかにも半信半疑の頼りないことで、しばらくははっきりこことは決めかねていたものだった。これも近所に住む当時に詳しい老人を煩わして現場へ足を運んでもらい、その頃と地況が一変していることを教えられてやっと一同納得したが、それほどに活字とお互いの記憶とはズレていることをしみじみ思い知らされた。この意味からもプレート1枚、木札1本でも、当時を知る既存者がいる間に現地へ建てて後代に伝える必要があると、一同心の底から痛感した。
岡山文庫 岡山の表町 岡山を語る会編 P-76
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その「岡山文庫-岡山の表町」には、大正末期の上之町の地図が載っており、そこにカフェー・ブラジルの位置もしるされていた。
岡山文庫 岡山の表町 岡山を語る会編 P-57より
さらにその本の中で、語る会の一人、高見賢二さんが詳しくカフェー・ブラジルについて語っておられました。ここでは、カフェ・ブラジルの部分を抜き出してそのまま紹介いたします...
カフェ・ブラジルは、岡山の大正文化のシンボル的な存在だった。
ブラジルは神戸の同社の本店がコーヒーの販売を広げようと、大正7年自由舎の裏、溝の傍らに開店した。ややくすんだ白い木造2階建てで、岡山のちょっとしゃれた町の新物食いが出入りした。
マント姿の六高マン、着流しの表町の若旦那たちが常連であった。
「安くて砂糖は使い放題、店の中が広々としてこせこせしていなかったなど、当時はとても魅力的だった」と、井汲さんの言葉である。
店内は当時岡山では珍しく大広間で、ところどころに丸い柱が建ち、数人がけの四角のテーブルが並べられていた。天井にはシャンデリアが輝き、すべての空間の意匠が、しゃれていたらしい。
コーヒーのほか、カレーライス、ハヤシライス、チキンライスなどの軽食も出た。
コーヒーは、真っ白で重量感のある肉厚で、カフェ・ブラジルの頭文字CBの字が描かれたカップ。ライスカレーも同様の肉厚の皿でテーブルに並べられた。
サービスは、ウエイトレスではなく、白いダブルに金ボタンのユニフォーム姿のウエイターがあたったことも、なにか斬新であった。
2階には両側から階段があり、同窓会など宴会の会場となっていた。
米1升19銭、ニシキ館の傍らの源平うどんが5銭当時、ブラジルのコーヒーは5銭、ライスカレーは20銭だった。
それは決して高い値段ではなく、肉厚のコーヒーカップの庶民的な味わいとともに、当時としては時代を先取りした新しい経営であったかもしれない。
岡山文庫 岡山の表町 岡山を語る会編 P-82〜83より
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「う〜ん、店内の様子が想像できますな〜...」とラッキー
「せやろ〜...! どんなとこやったか見てみたいやろ...?」
「写真がありまんのかいな?」
「一生懸命さがしたんやで〜 岡山と名の付く本を片っ端からさがしたんや!
そして、とうとう、みつけたんだ!
『岡山文庫の六高物語』に当時の六高生たちが我が物顔で陣取っている当時の写真があったんだ!ほら、これがその写真だよ!」
<岡山文庫 六高ものがたり p-81 より>
「どう...? おかやまを語る会の人が言うように、広い店内、丸い柱、四角いテーブルにシャンデリア、右奥のほうには白いダブルのウエイターさんたちも見えるだろ。」
「しかし、こりゃ〜六高生たちのかっこうのたまり場みたいやね?」
「そうなんだ!
当時の六高生たちにとって、このブラジルがどういう存在だったのか、またどうして5銭という当時では考えられないほどの安い値段でコーヒーを提供できたのか、その答えはやはり郷土史家の岡長平さんの本に見つけることができるんだ...。」
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