第50話「シーボルト先生の珈琲販売論」


チボリ公園
倉敷駅から見たチボリ公園

倉敷ゆかりの「石坂桑亀」は、洋学を学ぶため1823年長崎へ赴き、シーボルトの鳴滝塾の門下生となった。

日本にコーヒーを持ち込んだオランダ人がいた出島なら、そこを訪れた日本人がコーヒーを体験する可能性が高いと言える。

そこで、シーボルトとコーヒーの関わりについて、もう少し詳しく調べることにしたのだった...


 

たしか、カピタンの出島から江戸への参府の記録を調べたとき、ケンプエルやヅーフといっしょにシーボルトの記録も図書館から借りたのだが、始めての物語ばかりに気をとられて良く見てはいなかった...

しかし、今までに集めた資料の中に、シーボルトに関しての情報を持っている事をタカシは覚えていた。

奥山儀八郎先生の「コーヒーの歴史」の中に、「シーボルト先生の珈琲販売論」という章があったのだ...

ここで、明らかにしたいことは、

* シーボルトは、はたして自分の弟子に飲ませるほどのコーヒー好きだったのか?
* コーヒーの事に関してある程度の知識を持っていたのか?
* 人に飲ませるほど、当時十分な量のコーヒーを持っていたのか?
* 石坂桑亀にコーヒーをふるまったというような記述が残る資料は実在するのか?

こんなところだろう...

少々長くなるが、古い言葉で書かれている「シーボルト先生の珈琲販売論」を、私なりに現代言葉に直して全文を読んで見ることにした...

 シーボルト先生の珈琲販売論 (奥山儀八郎著:コーヒーの歴史より)

1823年、出島のオランダ館の医者として来日したシーボルト先生は、その日本紀行に珈琲について面白い意見を述べられている。次にそれを書き出して見ることにする。


ある晩に我々は長府公の侍医の訪問を受けた。

私(シーボルト)は、この侍医に数種類の新薬と一つの小冊子を進呈した。

この冊子は我々がヨーロッパでも使っている薬草で、日本にあるもの、及びその代用品と2〜3の新しい輸入薬を選んで記載してあるもので『薬品応手録』と題してある。

これは私の門人、阿波の高良齋が日本語に翻訳して序文を付け、私の費用で出版したものだ。

私たちは既にその数百部を頒布したが、それは医者の注意を日本にもある有効な新薬草、ならびに今まであまり人が知らない他国の薬剤に向けて、その販路を開くことを目的としたものであった。

その中には、例えばALYXIA REINWARDTIといって、瓜哇では熱発下剤に用いてよく輸出されるもの、ジキタリス海葱ヒスチアムスなど、以前には日本では知られていない薬品をあげてあるが、その他アラック(酒名)、カヤプート油、珈琲なども漏れなく記載した。

特に、珈琲の治効のあることに意を用いて記している。

日本人は暖かい飲み物だけを飲み、交際的な会合生活を好むにもかかわらず、また200年以上も世界の珈琲商人(オランダ人)と交易しながら珈琲がまだ日本人の飲み物となっていないことは実に驚くべきことである。

日本人は我々と会合するときは好んで珈琲を飲む

そして1年間に数ピコル(1ピコルは約60Kg)では、長崎の私の知り合いのオランダ人達が珈琲を欲しがるので、足りないほどである。

であるから、日本の一般の人々に珈琲を飲むという小さな不徳を教えることは、その労にむくいるだけの功績もまたあることと思われる。

このことは、きちんと計画を立てて実行すれば不可能なことではないと思われる。

そのためには、珈琲を賞賛する宣伝を行なうことが良いだろう。

例えば、珈琲は長生きの為の良薬であって、特に日本の様な国でこそ保健剤として用いるべきだと推奨すればよい。

ただし、珈琲を日本に勧めるのに問題が2つある。

一つは、焙煎には難しい技術を必要とすること。

そして、もう一つは、日本人が生まれつき、仏戒にふれることから牛乳を飲む習慣がないことである。

牛乳は白い血と考え、血を流すのはもちろん、血を飲むことは罪深いことと考えているのだ。

また、日本人は知識も持たずに適当に焙煎を行なうので、すぐに煎りすぎてしまい、私たちが推奨する珈琲の味とは程遠いものとなっていまい、珈琲の評判を損なうこととなってしまう。

その対策として次のようにすればよいと、私はオランダ政府に勧告したことがある。それは...

『毎年数千ポンドの珈琲を日本に送る事、それは焙煎し粉に挽いてきれいなカンかビン詰めとし、レッテルを貼り、調理方法と飲み方の指図書を記入すること。』

これが、私が切望するところであった。

まずシーボルト先生のコーヒーに対する知識であるが、

  医者として、珈琲の薬としての効果を自費出版までして広めている。
  ここに出て来る「薬品応手録」に関しては、長崎薬学史ホームページの<シーボルトの使った薬>に詳しく載っています。
    興味ある方はどうぞ...

  また、珈琲の売り込み方までを非常に的確に指示していることからしても、
  かなりの珈琲愛好者だったものと思われる。

次に、人にふるまうほどの量があったかどうかだが...

  一年間に数ピコルとは、一体どの程度のコーヒーが飲める量であろうか?
  1カップに10グラム使うとして、1年間で5〜6ピコルだと、1日に約80〜100杯の
  コーヒーを飲んでいた事になる。

  当時の出島にいたオランダ人は多くても10人程度であるから、1日に80〜100杯もの
  コーヒーのおこぼれをいただいた日本人がいたと言っても良いであろう...

奥山先生も、当時シーボルトの側近の日本人、すなわち蘭通詞とか丸山遊女とか蘭学者の門人達もコーヒーマニアだったかもしれないと記されている。

こうした事実からして、倉敷人の石坂桑亀もシーボルトの門下生としてコーヒーを飲んだ可能性が非常に高いと思われるのであった。

残念ながら、石坂桑亀が珈琲を飲んだというはっきりとした記述を見つけることは今のところできていない。

引き続き情報収集を心がけたい。

石坂桑亀
石坂桑亀

状況証拠だけとなってしまったが、倉敷ゆかりの最初に珈琲を飲んだ人は『石坂桑亀』であると結論付けて、次は倉敷の地で最初に珈琲を飲んだ人を捜す旅に出かけることにしたタカシでありました...

 


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もしも、石坂桑亀とシーボルトの歴史資料の中にコーヒーを飲んだと言った記述を
ご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひともタカシに教えてやって下さいませ!

また、石坂桑亀なんかよりもっと早くコーヒーを飲んだ倉敷人をご存じの方も
ぜひともご一報をいただけますれば、幸いに存じますです。