第32話「カフェから溢れる大正ロマン」
「明治43年日本橋小網町に、<メイゾン鴻の巣>がオープン。 「メイゾン鴻の巣にはどんなお客さんが出入りしてたの?」 「明治大正詩史のなかで日夏耿之介(ひなつこうのすけ)は、こんなふうに書いてます... 珈琲舗が初めて出来、洋酒場がはじめて開かれたのはこの頃(明治43年)である。 この中で出てくる文士というのは、「パンの会」という、いわゆるコーヒー愛好会を誕生させた人々の事を指してますねや。」 「パンの会?」 「そうパンの会。 「どんな人がいたの...?」 「北原白秋、石川啄木、与謝野鉄幹、小山内薫、永井荷風、木下杢太郎、吉井勇、高村光太郎、谷崎潤一郎、などなど、タカシでも知ってる名前のオンパレードやろ!」 「ほんとスゴイよね。今こんな喫茶店があったら、訪ねて見たいな〜。」 「カフェーといっても今の喫茶店とは違って、コーヒーが売り上げのメインではなかったようやな...。 パンの会がツイこの間、両国のさる所で開かれた時は、ずいぶん珍妙な喜劇をやったそうだ。
なかなか、おもろいやろ!
実際、洋酒の本当の味はプランタンとメイゾン鴻の巣で拡めたようなものだった と、書いてんねん。 「それじゃ〜カフェーと洋食屋の違いはどこにあるの、ラッキー?」 「ええとこに気がついたね。その違いとは... 「大正13年頃のカフェーの女給さんたちや... ここで文士たちは、フランスではその道の粋な飲み方とされ、通人の好むもっともしゃれた飲みものと教えられて、コーヒーにチョコレートやコニャックをいれて良く飲んだものらしいですわ... さて、メイゾン鴻の巣の客の中に、洋画家の松山省三がいました。 松山省三は プランタンを始めた動機は、メイゾン鴻の巣のミックス と、奥山儀八郎氏に語っています。 カフェー・プランタンはフランス語で「春」を意味し、小山内薫が名付けたとされてます。
「プランタン」はカフェーの第一号。 コーヒー豆はおやじが横浜まで買いに行ってましたね。 MJBとミックスして一杯十五銭で売ってましたね。 それからクラブハウス・サンドイッチもプランタンの名物でしたよ。 松山省三の子、河原崎国太郎氏はこのように当時を振り返っています。」 「やっと明治の終わりから大正時代にかけて、喫茶店がインテリや芸術家の溜まり場となった訳だね?」 「そういうこっちゃ! |
大正時代の幕開けと同時に日本のコーヒー史上において重要な人物と喫茶店が登場します!
次回、日本コーヒー史上画期的な業績を上げ、コーヒー人のあるべき姿、理想とする人間像
及び後世喫茶店の原形を示したある一人の男の物語を待て!