第31話「明治時代の珈琲物語」
「どうしたの急に?」.........突然、北原白秋なんて言い出すラッキーにちょっとビックリ 「こころざし半ばにして日本を旅だってしまった鄭永慶やったけど、こうして日本を代表する文芸人が「珈琲」を材料とした作品を残すまでになったいうことを、タカシに教えたろうおもてな...」 「時期尚早だった可否茶館やったけど、その後日本での喫茶店はどのように推移してきたの?」 「とりあえず、おもだった店の開店の歴史をいつものように年表でみてみましょう!」 そういうとラッキーは、壁に向かって映像を映し出してくれた。
「可否茶館以後大正を向かえるまでに、記録に残っている日本の喫茶店はこの9件だけや。 まず、ダイヤモンド珈琲店やけど..... この店は、その記録の発見のされ方がおもろいねん。 この店は、昭和10年11月、ある珈琲研究家によって発見されます。 上野美術館で開かれた「明治天皇、上野公園行幸60年記念、上野懐古展」内で、それは発見されました。 その懐古展で、運命的に先生はダイヤモンド珈琲店のビラと出会います。 あまり人が珍重しないものを集めるのが趣味という中沢澄男氏が集めた、ビラやチラシの類の中にそのビラがあったんですわ! 中沢氏本人は特に珈琲に関心がある訳でもなく、珈琲の歴史認識も詳しくなかったから、そのビラの持つ重要性に気がつく訳もなかったんやな〜、それにしても先生の執念はすごいやろ! 先生は珈琲の歴史的事実として、朝日新聞学芸欄へ昭和13年3月10日から12日に記事として発表されてます。このときまで、誰もダイヤモンド珈琲店のことなど知る由もなかったわけやな。 先生は、著書「コーヒーの歴史」で「当時の新聞記事にも、ついぞダイヤモンド珈琲店など見たことないから....」と書かれてるんやけど、その後、当時の東京日日新聞の記事を、わてはみつけましたんや! 明治23年4月8日、東京日日新聞はダイヤモンド珈琲店について、次のように書いてます 「八木新蔵氏はこのたびダイヤモンド珈琲店を、第3回内国勧業博覧会美術館庭前左側大松木下に設置し、かつて在米国中研究したる純良の珈琲を極めて廉価にうりさばくよし。休憩がてらその風味のいかんを試み給え」 しかし、当時の引札は(メニューみたいなもの)は、とんでもないもんやった... 珈琲一杯が、3銭 公園内に出た屋台のような店やったろうと想像できるけど、珈琲があの本格的な可否茶館の2倍以上、カレーとビフテキの値段が同じというメニューから見ても軽率そのもの、残念ながら珈琲の良き普及に貢献した店とはいえないみたいやね...これ以外の記録が何も残っていないところから、長続きしなかったものと考えられてます。 珈琲の普及といえば、お店の開店の何倍もの効果がある、ある情報が明治39年に日本中を駆け巡りました。 それによると..... 「両陛下は『金のお茶釜』で、朝のコーヒーを召し上がることを定例としている。一度煮沸かした水を金の茶釜に入れ再び煮沸かして奉る。茶釜の大きさは、直径40センチのものに二つの銀環を付したもので、昔、豊臣秀吉が関白の時、茶の湯に使用した物であるという」 天皇が珈琲を飲んでいるという記事は、当時の珈琲の普及宣伝に大いに役立ったはずや!」 「そりゃ〜そうだ! それにしても、明治天皇が珈琲好きだったとはおもしろいネ! どう考えても明治天皇の朝食のイメージは、ごはんに味噌汁だよネ〜?」 「秀吉の金の茶釜もすごいけど、やっぱ明治時代に毎朝コーヒーという習慣から、異文化への当時の日本の好奇心の旺盛さがわかる気がするやろ! 次に、ウーロン亭に関してやけど、台湾喫茶店「ウーロン亭」はその名のとおり、台湾のウーロン茶を売り物にしていた喫茶店やったけど、コーヒーもサービスしてたようですわ。 内山惣十郎著の「明治はいから物語」から紹介すると... 表は台湾紅茶の売店で、奥に喫茶室があり、ここの女給さんに「お夏ちゃん」という夢二式の美人がいて、若い連中が顔を見たさに良く入ったが、呉服橋で「港屋」という色紙店を経営していた竹久夢二も、ちょいちょい足を運んでいた、という。 そして、次に明治43年、日本で最初にカフェと名のった店、「メーゾン鴻の巣」と「キサラギ」がオープンします。 この「メーゾン鴻の巣」の常連の中に、北原白秋がいましたんや! 鄭永慶が目指した、西洋のコーヒーハウスの文化の芳香が、少しずつ香り始めた時代でした。 |
次回は、日本の文士が愛した、文化の香する初めての日本カフェの歴史に迫ります!