第30話「鄭永慶の生涯-その3」
「夢一杯でオープンした可否茶館やったけど、そのころの日本人の生活や意識からしたら、理想だけが先行してて、商売としては苦戦しとったんや。」ラッキーの話しは続いた...。 「珈琲の値段が高すぎたの...?」 「珈琲1杯1銭5厘、ミルク入りが2銭やった。 「それじゃ〜儲かるわけないよ。」 「当時の経営状況に関して、秋山定輔が次のように語ってます...
迷いがあるときに相場に手を出して成功したためしがないやろ。 その土地は自分のものと違うて、父永寧のもんやったから、いわば謀判や。
自分のせいで、鄭家の唯一の財産を人手に渡し、地位も名誉も、義理も人情も全て投げ出さなければならない...そんな境遇に堪えれるほど図太い人間ではなかったんや... 鄭永慶は、ついにその苦悩を死をもって逃れようと決心してしまいます。」
私は先生の態度が非常に変わってきたことに気付いて、内心不安を感じ始めた。 で、私は、いわゆる虫が知らせたとでもいうのだろうか、もしものことがなければよいがと、ひどく心配になりだしたので、ある日、先生の机の脇の手タンスの中を調べて見ると、私に対する遺言状と、両親ならびに一族に対する不幸の詫書が、その中にあった。 私は実に驚いた。
そこで、小さい時から受けた恩の事から話し始め、先生の書き置きを見たこと、相場で失敗したこと、謀判のこと、そのほかあらゆる知っている事、感じていることを全部さらけ出し、涙と共に話した。 それでは、どうしてこの苦境から回転したものだろうかと相談した結果、新たな意義から人生を始めようということになり、結果的に、変名して、アメリカのシアトルに密航を企てることになった.....
「しかし、少なくとも秋山定輔がいたおかげで、日本の本格的喫茶店の創始者が自殺することを回避できたんや。そして、この貴重な情報は秋山定輔がいたからこそ、こうして正確に伝えることができてるわけや。秋山定輔は、永慶先生をシアトルに送り出すためにも並々ならぬ苦労をしてはりまっせ〜... そして、永慶先生の名前を「西村鶴吉」と変名し、渡航先を先生のなじみのいない土地「シアトル」と決めバンクーバー経由で行くことに決めました。 横浜からバンクーバまでの船の切符をなんとか50円で手にいれ、すぐに発とうとして、ハタと困ってしもた... 西村鶴吉ではパスポートがとれない... どうにかして金の工面もし、やっと切符も買い求めたのに、パスポートだけはどうしようもなかったんや... 不本意だが、背に腹はかえられない。国法を犯して密航するより他はない....と決心したんや。 横浜から船が出てしまえば途中でバレても方法はある アメリカに着けば着いたでなんとかなると、アメリカの事情に詳しい先生は比較的楽観していた... こんなふうに、秋山定輔は当時を振り返ってます...」 「お世話になった人生の師の密航の手引き..... 「それが、失敗するねん。」 「ええぇー じゃ〜つかまっちゃったの...?」 「結果から言うと、秋山定輔の一世一代の大芝居のおかげで、なんとか船から抜け出し、先生に神戸から再度密航をやり遂げるよう提案して、二人はバラバラになってしまいます... 約一ヵ月後、なんとか出稼ぎ人の旅券を世話する問屋のおかげで西村鶴吉の名でパスポートを手にいれ、バンクーバーまでの切符も手配できたと先生から手紙が届きます... 神戸を発った船が偶然にも翌日横浜で一泊する船だったので、秋山定輔と鄭永慶先生はその夜、海岸に近い宿屋で一睡もせずに語り明かします... そして、それが、二人の最後の夜となりました... 永慶34歳 数ヵ月たったある日、ごく簡単な通知が先生から届きます。 それにはただ、安着と居所が書いてあるだけやった。 そして、次に届く手紙には、先生が病気がちであることと、シアトルで皿洗いをしていることが書かれていた... ........................................................................................................................ そして、一年ばかり経って受けた消息は、先生の死の便りやった.....。」 鄭永慶 明治28年(1895)7月17日 シアトルにて死去。37歳。
鄭永慶のまるで小説のような密航劇は、「秋山定輔は語る」村松梢風編に詳しく見ることができます。 「秋山定輔は語る」の最後は次のような文で締めくくられています... 今に考えても、死すべき人じゃないのが死んでしまった。
|
夢なかばにして幕を閉じた可否茶館ではありましたが
その後の日本の珈琲文化に影響を与えたことは事実でした。
次回は、明治時代の珈琲物語です。オタノシミニ!