第30話「鄭永慶の生涯-その3」



可否茶館が開店して4年目を迎えていた。

「夢一杯でオープンした可否茶館やったけど、そのころの日本人の生活や意識からしたら、理想だけが先行してて、商売としては苦戦しとったんや。」ラッキーの話しは続いた...。

「珈琲の値段が高すぎたの...?」

「珈琲1杯1銭5厘、ミルク入りが2銭やった。
 当時の物価としては、もりそばが8厘から1銭で、単純に比較すれば安いとはいえへんな〜...?
 事実、常連の高橋太華翁の談話の中にも<安いとは思わなかった>と記録されてますわ。
 その上、談話の中で<我々はよく、何も飲まずに玉だけついて戻ることもあった>とも語られてますんや。」

「それじゃ〜儲かるわけないよ。」

「当時の経営状況に関して、秋山定輔が次のように語ってます...


 
始めてみれば、一人でも客が多くなければ困る。
 私は気にかかるし、店を賑やかにする為に毎日友達を連れて行くのだった。
 新しい思い付きの可否茶館も、経済的には所期の成績を収めることはできなかった。
 思い付きはいいけれどもまだ時勢が少し早すぎた。
 やってみると月々の欠損である。
 こんなことから、やはりあの時学校にした方がよかったと考えても、今さら急にコーヒー屋を学校に変えるわけにはいかない。
 損を続けながら可否茶館を経営していた。


 こんな事情を抱えていた永慶は、相場に手を出してしもた。

 迷いがあるときに相場に手を出して成功したためしがないやろ。
 失敗した永慶は、借金のためにとうとう西黒門町の土地を担保に入れてしまいます。

 その土地は自分のものと違うて、父永寧のもんやったから、いわば謀判や。
 相場でどんどん損が嵩み、そのうち借金の期限が来てにっちもさっちもいかなくなってしもたんや。」


「最悪のパターンやんか。永慶は早いうちに誰か相談できる人はいなかったの?」
 優秀な大先輩がそんなに簡単に最悪のシナリオを踏むことになるなんて納得いかないタカシだった。


「これはわての想像やけど、自尊心が人一倍強かった永慶は、りっぱになった同窓の仲間にだけは自分の窮地を悟られたくなかったんやと思うな〜。
 一人で悩んで一人で苦しんで...でも、もうどうすることもできなくなっていたんやな〜...

 自分のせいで、鄭家の唯一の財産を人手に渡し、地位も名誉も、義理も人情も全て投げ出さなければならない...そんな境遇に堪えれるほど図太い人間ではなかったんや...

 鄭永慶は、ついにその苦悩を死をもって逃れようと決心してしまいます。」


「えぇ〜......自殺しちゃったの...? あまりに悲しい結末やんか」


「ダイジョウブ!
 銃で自殺する直前、先生の異変に気が付き、先生を助けたいきさつを秋山定輔が後に次のように語っています。(村松梢風「秋山定輔は語る」より)

 私は先生の態度が非常に変わってきたことに気付いて、内心不安を感じ始めた。
 ちょっとしたことを話すにも、自暴自棄な調子があった。
 万事が嘲笑的で、脱線的だった。
 と、同時に、いかにも胸中悶々の情に堪えぬもののような、苦しげな有様が、外観からも観取された。

 で、私は、いわゆる虫が知らせたとでもいうのだろうか、もしものことがなければよいがと、ひどく心配になりだしたので、ある日、先生の机の脇の手タンスの中を調べて見ると、私に対する遺言状と、両親ならびに一族に対する不幸の詫書が、その中にあった。
 それで私は、初めて先生の決心を知ったのだった。

 私は実に驚いた。
 と同時に、私は何とかして先生をこの境地から救い出さなければならないと決心した。


 いつなんどき、どんな事が起こるやらわからへん状況を心配した秋山定輔は、ある日、無理やり永慶を散歩に連れだし、まず浅草へ行き、渡し船に乗って向島へ渡り、落ち着いて話しができる家を捜し、「鮎こく」という旗の出ている家へ上がったんや。
 秋山定輔はその時の様子を次のように語っています...

 そこで、小さい時から受けた恩の事から話し始め、先生の書き置きを見たこと、相場で失敗したこと、謀判のこと、そのほかあらゆる知っている事、感じていることを全部さらけ出し、涙と共に話した。
 始めは隠していた先生も、あとにはうれし涙にむせぶほど感動し、すっかり事の真相を打ち明けられた。そして、今晩にも明日にも、ピストルで自殺する決心だったと、告白した。

 それでは、どうしてこの苦境から回転したものだろうかと相談した結果、新たな意義から人生を始めようということになり、結果的に、変名して、アメリカのシアトルに密航を企てることになった.....



「なんということや。エール大学に留学までし、大蔵省で活躍までした人が密航だなんて...」

「しかし、少なくとも秋山定輔がいたおかげで、日本の本格的喫茶店の創始者が自殺することを回避できたんや。そして、この貴重な情報は秋山定輔がいたからこそ、こうして正確に伝えることができてるわけや。秋山定輔は、永慶先生をシアトルに送り出すためにも並々ならぬ苦労をしてはりまっせ〜...

 まず、お金を工面するために、自分の給料3ヵ月分を抵当にいれて150円を金貸しから借りたんや。

 そして、永慶先生の名前を「西村鶴吉」と変名し、渡航先を先生のなじみのいない土地「シアトル」と決めバンクーバー経由で行くことに決めました。

 横浜からバンクーバまでの船の切符をなんとか50円で手にいれ、すぐに発とうとして、ハタと困ってしもた...

 西村鶴吉ではパスポートがとれない...

 どうにかして金の工面もし、やっと切符も買い求めたのに、パスポートだけはどうしようもなかったんや...

 不本意だが、背に腹はかえられない。国法を犯して密航するより他はない....と決心したんや。

 横浜から船が出てしまえば途中でバレても方法はある

 アメリカに着けば着いたでなんとかなると、アメリカの事情に詳しい先生は比較的楽観していた...

こんなふうに、秋山定輔は当時を振り返ってます...」

「お世話になった人生の師の密航の手引き.....
 秋山定輔の心中はどんなもんだったやろか?
 辛かったやろなあ〜.....それで、密航は成功して鄭永慶はシアトルでどうなったの...?」

「それが、失敗するねん。」

「ええぇー じゃ〜つかまっちゃったの...?」

「結果から言うと、秋山定輔の一世一代の大芝居のおかげで、なんとか船から抜け出し、先生に神戸から再度密航をやり遂げるよう提案して、二人はバラバラになってしまいます...

 約一ヵ月後、なんとか出稼ぎ人の旅券を世話する問屋のおかげで西村鶴吉の名でパスポートを手にいれ、バンクーバーまでの切符も手配できたと先生から手紙が届きます...

 神戸を発った船が偶然にも翌日横浜で一泊する船だったので、秋山定輔と鄭永慶先生はその夜、海岸に近い宿屋で一睡もせずに語り明かします...

 そして、それが、二人の最後の夜となりました...   永慶34歳

 数ヵ月たったある日、ごく簡単な通知が先生から届きます。

 それにはただ、安着と居所が書いてあるだけやった。

 そして、次に届く手紙には、先生が病気がちであることと、シアトルで皿洗いをしていることが書かれていた...

  ........................................................................................................................

 そして、一年ばかり経って受けた消息は、先生の死の便りやった.....。」

 鄭永慶 明治28年(1895)7月17日 シアトルにて死去。37歳。



こうして、日本最初の本格的喫茶店「可否茶館」は幕を閉じます。

鄭永慶のまるで小説のような密航劇は、「秋山定輔は語る」村松梢風編に詳しく見ることができます。
また、星田宏司氏の「日本最初の珈琲店」にもその時の様子「秋山定輔は語る」全文が掲載されています。

「秋山定輔は語る」の最後は次のような文で締めくくられています...

今に考えても、死すべき人じゃないのが死んでしまった。
死にたくも死ぬるわけのものではないと思うが、それが死んでしまった。
この私の気持ちだけでも、もう一度先生を
世に出さずにはおかないと思ったのだが、その甲斐がなかった。

当時の私の気持ちでは、天をうらみ神をうらみたいと思った。
しかし、ひるがえって考えて見ると、これがつまり人生である。
死すべからざる人が死し、成功しなければならぬ人が中途でたおれている。
人間の一つの生涯だけを見ると、いかにもはかないようなものである。
が、人間の精神とか功徳というものは、それと共に滅びるとは言えないのである。

現に鄭先生には三人の子がある。
生まれて間もなく、岡山の母の生家に引き取られて、向こうで育てられた。
私は三人ともごく小さい時の顔を見たばかりだが、皆それぞれ立派に成人なされたはずだ。
この方々や、そのまたお子さんの身の上に、先生の功徳がいつか報いて来る日があるだろう。
いわゆる輪廻となり、非常な幸福がそこに生まれて来ることを、私は念じ、かつ信じているのである。

 


一つ前に

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夢なかばにして幕を閉じた可否茶館ではありましたが
その後の日本の珈琲文化に影響を与えたことは事実でした。

次回は、明治時代の珈琲物語です。オタノシミニ!