鄭永慶の生涯についてのラッキーの話しは続いた...
「明治15年(1882)6月、惜しまれながらも強引に岡山師範中学校を辞職して東京に戻ります。
東京ではすぐに田尻稲次郎の推薦で大蔵省に入りました。永慶24歳。
一緒にエール大学で学んだ田尻稲次郎・鳩山和夫・金子賢太郎らが中央で活躍するのを、地方で教職に甘んじていることが、がまんできなかったんやろネ。
岡山での2年間で多くの人に慕われた非常に優秀な教育者でした。
本当に惜しまれつつ岡山を去ったようです。
この永慶が上京したとき、修学のため一緒に東京へついていった青年が3名いました。
井上槌五郎・吉田吉次・そして秋山定輔です。
秋山定輔 「秋山定輔 伝」より
秋山定輔は鄭永慶の家に寄食して、神田淡路町の共立学校へ通学してます。
この秋山定輔の言葉によって、鄭永慶の詳細な人生絵巻が語り継がれることとなったのです。
「鄭永慶の生涯」続き...
明治16年(1883)岡山県岡村の豪家、菅蓑也の長女・寿子と結婚。永慶25歳。妻19歳。
明治18年(1885)長男誕生。永慶27歳。
明治19年(1886)妻・寿子、肺病の為22歳の若さで死去。
永慶は辛かったやろな〜。
生まれたばかりの乳飲み子を抱えた永慶の為に、菅家は寿子の妹・徳子(18歳)をむりやり後妻に娶らせたんやけど、不幸はこれで止まることはなかったんや.....永慶28歳。
明治20年(1887)永慶、大蔵省を辞職。永慶29歳。
やはり学位がなくては役所では重用されなかったようで、ついに辞職してしまいます。
学歴偏重主義に対する悔しい思いを胸に抱いて、意地でも上級官僚たちをあっと言わせるような、何かをやってやろうという一心で役所を飛び出したんやろな〜?
同じ年の明治20年、なんと鄭永慶の家が失火のため焼失してしまいます。同年次男誕生。
妻をなくし職をなくした永慶に火事という最悪の不幸が降り注ぎます。
父の土地に新しく建物を建て、再出発を目指す永慶は友人から借金をし、西洋館を建てる決心をします。
永慶は育英事業として学校を開設したいと思ってましたが、莫大な資金のあては、まったくありませんでした...
明治21年(1888)焼け跡に、五間に八間二階建ての西洋館を新築。
ここを可否茶館として4月開業。永慶30歳。
新築の西洋館を前に秋山定輔と最後の最後まで学校をやるかコーヒー屋を始めるか迷った永慶やったけど、とうとう可否茶館を4月開業することになったんや。
学校の代わりにコーヒー屋...?
現代では全く違う方向の業種をなぜ永慶が選択したのか...?
タカシのそんな質問の答えとなるある説を、鄭永慶と縁続きの寺下辰夫氏が次のように唱えてます。
明治16年(1883)伊藤博文門下の三羽烏といわれた井上肇、伊藤巳代治、金子堅太郎らによって「鹿鳴館」が開設され、世は欧化主義の全盛期を迎えて、世にいう「鹿鳴館時代」が華々しく幕を開いた。
....................中略...................
事実、当時の「鹿鳴館」は、限られた上流階級のみの占有する「社交場」で、中産階級や若い世代の者たちは、一歩も足を踏み入れることのできない、「驕れる社交場」であった。
これを見た永慶氏は、「よし、俺はあんな表面だけの欧化主義で馬鹿さわぎをしている社交場なぞとはちがった、大衆庶民や学生、青年のための<社交サロン>であり、<知識の共通の広場>となる、新しい<喫茶店を開店>して、若い世代の者たちのために一旗あげてみよう」と決意したのだ。
また寺下氏は、この説を唱える根拠として氏の母からの話しとして次のようにも伝えてます。
永慶が喫茶店みたいな道楽仕事をおっぱじめた事も、彼には彼の夢があったようだ。
永慶がいうのには...
「いまにごらんよ、あんなろくでもない鹿鳴館が栄えるもんか。
いかに大きな社交殿堂といっても、国民のために何の役にたつというんだ。
なんでもかんでも、うわべばかりの真似をしても、ほんとうの西洋文化のよさを識ってはいないのだ。
僕らは、一応、エール大学に通ってみて、振興国アメリカの成長してゆく姿も見たし、おぼろげながら、<デモクラシー>もわかったと思うが、あの鹿鳴館でランチキ騒ぎをしている大半の連中は、テンデ、西洋の文明文化なんてものはわかっていないではないか。
僕が建てた、<可否茶館>のほうが、どれくらい世の中の人の憩の場所になるかもしれんよ。」と...
「どうです? どうして鄭永慶が学校をあきらめて喫茶店を目指したかわかったかな?」
「うん。なんだか、前に行った中世ロンドンの<ペニー大学>みたいやね...?」
「そのとうりや! 永慶は珈琲一杯の価で、学校以外の<良識の醸成場>としたかったはずや!
ペニー大学の詩にこんなんがあるんや...
何と偉大な大学よ
私はどこでもこんな所見たことがない
そこはタダの1ペンス払ったら
お前はすっかり大学者
明治22年(1889)三男誕生。永慶31歳。
明治23年(1890)妻・徳子が前妻寿子と同じ病に倒れ、死去してしまいます。
徳子もまた享年22歳。
永慶32歳。またしても乳飲み子を残されて妻に先立たれる不幸を浴びてしまった永慶。
しかし、そんな妻の死を冷静に受け止められないほど、永慶の頭の中は違う問題に犯されていたのだった...
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