「おい君、ここを学校にしようか、コーヒー屋にしようか?」
日本最初の本格的珈琲店「可否茶館」の創始者鄭永慶は、門人であった秋山定輔に相談するのだった。
時は明治21年、新築の2階建ての洋館を目の前にして、まだ鄭永慶は迷っていた。
生活のため面子を捨てる決心をしても、いざとなるとまだ躊躇する鄭永慶だった。
「どうも俺には、ハイいらっしゃい、となかなか言えそうにないよ」
と先生から嘆声まじりで度々相談を受けていた秋山定輔は次のように語っている。
「私としては無論、先生をコーヒー屋の亭主にしたくない。
先生には学校をやらせたい。
北京に育って支那語は堪能だ。語学も英仏支3か国語がいける。
語学を除いても、先生の学力では相当弟子は来ると思う。
思うが問題は金である。
理想を論じているのではなく、生活難を救済することが目的である。
少しでも金の儲かることでなければ仕方がない。
私も同じように迷うのであった。
すると先生は最後に「浮世は三分五里だ、まあやって見よう」と自ら嘲るように言って、それでいよいよ始めたのであった。」(松村梢風編-秋山定輔は語るより)
鄭永慶先生(中央)と秋山定輔(右)
「秋山定輔 伝」より
「ねえラッキー。鄭永慶先生は本当は学校を作りたかったのに、お金がなかったからコーヒー屋を始めることに決心したんだよネ?」
タカシのそんな疑問に「せやね...」と、ラッキーは軽くうなずき、身をのりだしてきた。
「だけど、どうして学校がだめならコーヒー屋を選んだんだろう?
学校とコーヒー屋では、ずいぶん方向が違っていると思うんだけど...」
「その疑問にちゃんと応えるためには、鄭永慶の波乱万丈な生涯を、まず知ってもらう必要があるやろな。」
「そんなに波乱万丈な人生だったの?」
「そうなんや.......さて、なにから話せばいいか.....」
しばらく天を仰ぎ回想するかのようなしぐさをしてからラッキーは話し始めた...
「安政6年(1859)鄭永慶は長崎に生まれてます。
永慶の父は外務省権大書記官であった鄭永寧といい、支那語と英語に通じた優秀な人でした。
実は永慶は鄭永寧の養父鄭朝輔の庶子であり、事情があって鄭永寧にとって養父の子供の永慶を自分の長男としたという事実があって、永慶は生まれながらにして複雑な運命の流れへと入っていくことになったんや。 家庭環境から自宅で漢語と英語を小さいときから勉強させられとったみたいやな。
明治2年(1865)父鄭永寧の仕事のため、永慶わずか11歳のとき北京にて支那語を実習してます。
明治5年(1872)京都の仏語学校にて学びました。
永慶14歳ですでに英・仏・支那の3か国語ができたんやからすごいやろ!
明治7年(1874)永慶16歳で渡米し、ニューヨークのエール大学に学びます。
この時の同窓には、金子堅太郎・駒井重格・田尻稲次郎・鳩山和夫・目加田種太郎・岡部長職ら、後年帰国後、日本の政治・経済・文化の方面に大きく寄与した人々ばかりやから永慶の優秀さが解るというものやろ?
明治12年(1879)永慶、病気(腎臓病)のためエール大学を中途退学して帰国します。
今でもそうやけど、当時は卒業して学位があるんとないんとでは、月とスッポンぐらいの差がありました。
エリートとして順調だった永慶の人生設計がここから大きく方向が変わっていくことになります。
もし、永慶が病気にならず卒業していたなら、可否茶館はなかったやろな〜...。
幸い、病気は帰国後回復しました。
明治13年(1880)同窓で先輩の駒井重格が校長をやっていた岡山師範中学校(現在の岡山大学)の教頭として岡山へ赴任してきています。
22歳の永慶が、タカシのふるさと岡山へやってきてるんや。」
「本当...? 実は、岡山大学は僕の母校なんだ!
日本最初の喫茶店にどんな形にせよ地元の岡山が係わっていたなんて、ちょっとうれしいな!」
「永慶本人にとって岡山の土地は結果的に決して本意な場所ではなかったんやけど、彼の人生にとって命の恩人と出会うことができた大切な場所やった!」
「命の恩人なんて...永慶は事故かなにかで死にかけたの...? 恩人て誰のこと...?」
「その命の恩人とは<秋山定輔>
永慶が岡山師範学校で教鞭をとったとき、学僕として住み込んだのが、同校生徒の秋山定輔やった。
秋山定輔は陰になり日向になり永慶先生とともに波乱万丈の人生を歩んでいくことになります。
実は、秋山定輔がいたからこそ、いま、可否茶館の歴史をこうして伝えることができてますねや。」
「ええぇ〜!じゃ〜地元岡山の僕の大先輩が偶然にも日本のコーヒーの歴史史上重要な役割を演じていた訳なんだね...?」
「まあ、そういうこっちゃけど、決して秋山定輔の役回りは幸せいっぱいのもんではなかったんや。いや、辛い辛い役回りやったかもしれんな...?」
こころなしか寂しそうに再び天を仰いだラッキの話しは続いた...
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