第27話
-可否茶館-
日本最初の本格的珈琲店



明治の年号に代わって16年目(1883年)、「鹿鳴館」が社交クラブとして麹町区山下町(現在の千代田区内幸町1丁目)に建てられ、いわゆる「鹿鳴館時代」が始まった。

残念ながら、その時に催された落成記念パーティーでコーヒーがふるまわれたかどうかは明らかではない。

しかし、翌17年、伊藤博文婦人梅子が中心となって開催した鹿鳴館婦人慈善会のバザーでは、茶、コーヒー、レモナードなどを売る店が二箇所作られ、大変な人気を博したと記録されている。

そんな、欧化主義全盛の流れに対し、批判的な人々も少なくなかった。

一般庶民の当時のコーヒーに対する実情を洞察するとき、当時の俳優川上音二郎オッペケペー節の名を借りて痛烈に風刺した中に見つけることができる。

明治24年(1891年作)

「亭主の職業は知らないが、おつむは当世の束髪で、言葉は開化の漢語(英語の事)で、みそかの断わりカメ抱いて(カメ=洋犬のこと)不似合いだよおよしなさい、何にも知らずに知った顔、むやみに西洋鼻にかけ、日本酒なんどは飲まれない、ビールにブランディー、ベルモット、腹にもなれない洋食を、やたらに食うのも負け惜しみ、ないしょで後架(トイレ)でへどついて、まじめな顔してコーヒ飲む、おかしいね、エラペケペッポ・ペッポッポー。」

鹿鳴館の夜会風景

 


鹿鳴館落成から遅れること5年、歴史的資料の確実性、 
そのものの持つ様々な要因から、誰もが日本最初の本格的
な珈琲店と畏敬の念を持って認める店がオープンした。 

その名は.....「可否茶館」

創始者は.....「鄭永慶」

鄭永慶の写真
「日本最初の珈琲店(可否茶館の歴史)」星田宏司著、いなほ書房より

時は.....「明治21年4月13日」   

場所は.....「東京下谷区上野西黒門町2番地」

 


「ところでラッキー、この可否茶館が本格的と言い伝えられている理由として、<歴史的資料の確実性と様々な要因>とあるけど、具体的にはどんな事実が伝わっているの...?」

タカシは、数ある喫茶店の中でどうして可否茶館が本格的な喫茶店の最初であるとされているのか、その根拠が知りたかった。

自信満々でラッキーは話し始めた。

「まず、いつか...? ということやけど... 

 明治21年4月13日付けの読売新聞に開業案内広告が出てまんねん。
 これが正しい開業日にちがいおまへん。


「日本最初の珈琲店(可否茶館の歴史)」星田宏司著、いなほ書房より

 

 次に場所やけど、鄭永慶は開店するときに「可否茶館広告・附世界茶館事情」という小冊子を配布してんねんけど、その小冊子が昭和の始めに石井研堂いう人によって発見されたんや。

 その小冊子の最後に住所がバッチリかかれてたわけや。貴重な資料やな!」
(小冊子の原文は星田宏司氏著の「日本最初の珈琲店」で見ることができます)

「それじゃ〜次に、みんなから本格的と言われる理由はどんなことなの?」

「何をもって本格的というか...? こんなこと考えとったらいつまでたっても結論で〜へんやろ。

 せやけどこの可否茶館は、なんというても本格的やった。

 それは、その理念と設備においてや!

 当時は鹿鳴館時代。
 欧化主義に驕れる上流階級のみの鹿鳴館に対し、強烈な批判を創始者の鄭永慶は抱いていたに違いなかった。

 彼は英語・フランス語・中国語ができるインテリやった。

 海外渡航経験もあり、庶民が自由に気楽に交流できる場としてのコーヒーハウスをアメリカで実際に目にしてきてたんや。

 彼は、庶民の共通のサロン、知識の広場を理念としていたわけや。

 そして、その為に用意した設備は、今でもびっくりするぐらいのものなんや。

 建物は洋館の2階建て。

 ビリヤード・トランプ・クリケット・碁・将棋と遊具をそろえたばかりか、更衣室・化粧室・シャワーまで完備してたんや。

 すごいやろ〜、明治のことやで〜!

 さらに、硯に筆・便箋と封筒も常備してあり、知識を得られる教育的な設備としては、国内外の新聞・雑誌を置き、図書館を目指して各種の書籍・書画を閲覧できるようにまでなっていた。

 ただ単に珈琲を売って利益を得るためだけの店では無かったわけや!」

「ほんまやネ。今でもここまでの喫茶店はないんちゃうかな〜?
 現在の喫茶店の在り方を考える上でも、重要な原点とでも言えそうな理念だった訳だね」


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庶民のサロンを夢見て開店した鄭永慶の可否茶館
日本の珈琲史上重要な位置を占めるこのお店はどんな運命を全うするのか?
想像を絶する波乱万丈の記録は次回を待て!