第21話「オランダだけが目指した道とは...?」
ゆっくりと停車したマンデリン号から外の風景を見て、ラッキーがつぶやいた。 美しく咲き乱れたチューリップの花畑。 のどかな牧草地でゆったりと回転する大きな風車。 そう! ここはオランダだった。 |
「日本に渡ってくるコーヒーにとって、オランダが重要なポジションを占めているの...?」 「まあ、そうなんやけど。タカシは日本史は詳しいのかな...?」 <あまり期待はしてへんけど...> と言いたげなラッキーからの質問だったが、口惜しいかなその通り、ほとんど知識の持ち合わせはなかったタカシであった。 「世界史なら自信有るけどな...」 などと小さな声で抵抗しては見たものの、ラッキーには聞こえなかったようだった。 「日本は1639年、鎖国令をひいて、外国との交渉を断絶してます。これは有名な話しやね...? 「コーヒー貿易戦争で勝利を収めたオランダの通商力が、日本へもコーヒーを売り込みに来たと言う訳なんだね?」 「確かに強力な貿易力を持ったオランダやったけど、オランダをただ単に貿易力に勝る国というだけで理解したんでは、コーヒー史上でのオランダの位置付けを完全に理解したとは言えませんねん。」 「というと...?」 「数々のヨーロッパの国々が、コーヒーハウスを拠点に、様々なコーヒー文化を花開かせたことは、タカシも十分理解出来た思います。しかし、そんな国々と明らかに違う観点で、オランダはコーヒーの歴史に大きな影響を与えてますねや。 「それじゃ〜オランダで多くのコーヒーを栽培してたという訳...?」 「......?.......?.......?...何を今さら言うとりまんねん。 「トホホ...って、たぶん違うやろな〜って思てたけど、ちょっと言うてみただけやがな。 「まあ、違うとは言いませんけど..... そこまで他国への流出に気を付けていたコーヒーが、ついに他国で栽培されることになるわけなんやけど、そこにオランダ人が登場する訳や! 16世紀の後半、ドイツ、イタリア、オランダの植物学者や旅行者が次々とレバント地方(現在のシリア・レバノン一帯)から新しい植物及び飲み物の情報を持ち帰っておる。もちろんコーヒーのことやね。 多くのヨーロッパ各国が、それらの知識を<コーヒーを飲む>という文化・習慣の獲得、啓蒙へと動いた中で、ひとり知識を実利へと変える方向へ向かった国があったのや。 そう。それがオランダやった。 オランダはしたたかな商人、当時抜け目の無い貿易国であり、植民地でコーヒーの栽培を試み、自国をコーヒーの世界貿易の拠点にしようともくろんだんやな。 オランダ東インド会社が設立されたのが1602年。 「たしか、ヨーロッパに初めてコーヒーが伝わったのが、イタリアのベネチアに1615年だったから、いかにオランダ人が進取の気性に富んでいたかがうかがえるね。」 「せやね。フランスにコーヒーが伝わる1644年の4年も前の1640年には、ウルフバインという商人が初めて商業ベースでモカからアムステルダムへコーヒーを輸入し、売り出してますねや! そして1663年には、モカとアムステルダム間の貿易は定期化されるようになります。 ロンドンに最初のコーヒーハウスを出したパスカ・ロゼは、1664年コーヒー豆を売り出すときにコーヒーをオランダの飲み物と称して広めていることも明らかになっとります。」 「なるほどね。オランダ人はコーヒーをただ輸入して自国で飲むだけではなく、近隣のヨーロッパ各国へも輸出して、ヨーロッパでのコーヒー貿易を一手に引き受けようとしたわけだね...?」 「そういうこと。 さてさて、結果的に現在の私たちのコーヒーの楽しみにも大きな影響を与えることとなったオランダのコーヒー栽培の歴史については、次回のオタノシミということで..... いよいよ、日本上陸間近のコーヒーロード。 コーヒー栽培の勇、オランダから、どのようにして伝わったのか...?
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