第10話「どうして、モカ港はこんなに寂れちゃったの?」
それにしても、ものすごく暑い! 「だいたい何度ぐらいあるの?」車から下りて波打ち際目指して歩きながら聞いてみた。 「何度ぐらいだと思います?」ムハンマドが笑いながら聞き返してきた。 「暑いお風呂に入っている感じ以上だから50度ぐらいじゃない...?」 「良く分かりますね。日本でもこのくらい暑い日があるのですか?」 紅海沿岸沿いの平野部のここティハマ地方は、首都サナアのある高地とは全く違う所だった。 少しでも海に近づいて、涼風を受けようと波打ち際を目指しているのだった。 アッシャーズリーモスクを見上げながら海岸沿いまで来た私は無理を言ってボートで紅海に出て見た。 崩れ落ちたレンガの塊と化した税関後から、ひとけのない内陸部に目をやると、 かつてのコーヒー商館である。3つの丸はコーヒーを取り扱っていることを表わすシンボルマークだ。 覚えていらっしゃるでしょうか? 2つの内の1つの伝説に登場したオマールは、実は、ここモカの祈祷師だったのです。 アブダル・カディールの古写本によると、モカの守護聖人シーク・スシャデリの弟子シーク・オマールがモカの王様の娘の病気を祈祷で直した際に王女に恋をしてしまい、その事を良いことと思えなかった王様がオマールを町から追放し、ウサブという山中に追いやってしまった。この山中でオマールは偶然コーヒーを発見したというお話しでした。 それから約200年後の1454年頃の話しである。 このことをきっかけにコーヒーは急速にアラビア中に広がっていきました。 そして、16世紀初頭にはトルコに、17世紀にはヨーロッパへと伝わったのでした。 コーヒーの歴史を語る上で、その歴史には2つの視点があることに気付きます。 エチオピアからイエメンまでのコーヒーの辿った歴史は飲用と栽培が並行して進んできました。 なぜでしょう? ひとつは、コーヒーノキの栽培条件がどこにでもあるものではなかったことでしょう。 ヨーロッパの人々にとって、アラビアの真っ黒い摩訶不思議な飲み物は、神秘のベールに包まれた怪しくも手に入れたい貴重品でした。その神秘性を失わないようにするためにアラビア商人は考えました。 世界中のコーヒーを支配していたモカには、各国の商館が進出し、17世紀にピークを向かえました。 貴重品であればあるほど相場は高騰し、アラビア商人は調子に乗りすぎました。 当時のヨーロッパ各国は、次々に植民地を増やして行った強い時代で、何とかしてコーヒーの栽培を自国の範疇で行い、大きな利権を得ようと考えるようになったのです。 絶対に流出するはずがないコーヒー生豆が、ヨーロッパ列強国に伝わるまでそれ程の時間はかかりませんでした。神秘性を助長するために作られていた数々のコーヒーにまつわる神話は、栽培の伝播とともに神話でなくなっていきました。 こうして世界中のコーヒーを牛耳っていたモカは、ヨーロッパ列強国が次々と植民地でのコーヒー栽培に成功していくなかで次第に地位を失い、急速に衰退していったのでした。 「コーヒー飲用の伝播はここイエメンから、メッカ、メジナといったイスラム圏に広がり、1510年にエジプトのカイロへ伝わります。そのエジプトへ遠征したセリム1世によって1517年トルコのコンスタンチノープルへと伝わります。そして17世紀には急速にヨーロッパ各国へとほぼ同時に伝わります。イエメンの後の、この旅はどうするつもりなのですか?」 「........................?」何も考えていなかった。 確かに行って見たい場所がまだ沢山残っていたが、どの経路を辿れば日本へのコーヒー飲用伝播の道なのか勉強しなければならないことは間違いなさそうだった。
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