第2話「珈琲のふるさとジンマへ」


「ジリジリリ〜ン」

けたたましい電話の音。

<うるせえなあ〜>一瞬ここがどこなのか判断に迷った。

「あっ!」


私は跳び起きた。熟睡したせいか頭は冴え渡っていた。
というより、あせって跳び起きたというほうが正解だった。寝過ごしたのだ。

時計をみると11時を10分過ぎていた。
第一段階で、約束の11時に遅れてしまったと思い、そして次の瞬間重大な事に気が付いた。

「時差をわすれてた!」(時差は6時間もあるのだ)

おもわず叫んでしまった。とりあえずうるさい電話の受話器を取った。

「おはようございます。早くしないとおくれるよ。ロビーで待ってるよ。」

アベベだった。確かに早くしないと遅れるとアベベは言った。
<ということは、まだ間に合うということか...?>

<結局のところ今何時なんだろう?どう見ても昼前とは思えなかったが?>

私はいつも最終目的地に着いてから時計を合わすことにしていたが、それを怠っていた。
混乱した頭を抱えながらも出発の準備を5分以内で完了させドタバタと部屋を後にした。

「おはようございます。」アベベの笑顔を見て落ち着きを取り戻せた。

「おはようさん。遅れてごめん。ところで今何時?」一番気になっていた事をまず聞いて見た。

「今は、早朝の11時20分で、ヨーロッパ時間では5時20分です。」

「えっ?」

「だから、エチオピアの時間では早朝の11時20分で、ヨーロッパ時間では5時20分です。早く行かないとバスに乗れなくなる。出発、出発。」

ピアッサから長距離バスのターミナルまでは乗り合いワゴンで行くことにし、どうしても理解できなかったアベベの言葉の謎解きをワゴンの中でしてもらった。

わかりにくいが、答えはだいたい次のような事である、

エチオピアでは大半の国で使用している西暦とは異なる「ユリウス太陽暦」が使われている。
西暦1997年9月11日がエチオピアでは1990年1月1日にあたり、一年は13ヵ月ある。
30日間の月が12あり、たった5日間の月が13ヵ月目に存在する。
また、1日は24時間というのは一緒なのだが、24時間は2分されそれぞれの7時が1時となっている。

ややっこしいが、つまり、エチオピアで1時といえば、7時のことであり、アベベの言った11時はエチオピア時間であり、西洋時間では朝の5時を指していたのだ。

ますますややこしいことには、エチオピアではこの2種類の時間が混在しているのだ。
海外からのビジネスマンおよびその周辺で仕事に従事している人達は西暦を通常使用しているが、地元の人どうしではエチオピア時間を使用しているようであった。

どちらにしても、今が1991年という国が実際に存在することに対して、不思議な感動を覚えた私だった。

この複雑な時間に時差が加わるのだ。
この辺になってくると、せこせこした時間にとらわれることを放棄し、太陽の動きに応じた生活がしたくなるのは私だけではあるまい。しかし残念ながら交通機関を利用するためにはこの難解な時間の理解を求められた。

うまいぐあいに、日本との時差はマイナス6時間であった。
偶然にも時計を合わすことを怠った私の時計はエチオピア時間を正確に表示してくれていたのだ。
とはいっても、結局最後まで時間に関してはアベベにすべて任せてしまった私だった。

「ワラジ!と大きな声で言って下さい。ワラジです。」アベベが耳元で囁いた。

「何なの?ワラジって?」私もひそひそ声でアベベに聞いた。

「もうすぐバスターミナル。降りるときワラジ。言って、言って。」
ニコニコしながらアベベがうながす。

「ワラジ!ワラジ!」

ワゴンは速やかに停車した。
いろいろな行き先の人を乗せている乗り合いワゴンでは、ワラジと叫べばすぐに止めてくれるのだ。ピアッサからバスターミナルまで約2〜3Km。たった0.4Birrである。

<安くて便利な乗り合いタクシーはなぜ日本にないのだろうか?>などど思いながらアベベの後についてバスに向かった。

バスは思っていたより数段高級な、きれいなベンツだった。

しかし日本のバスと比べていくぶん小さめである。

長距離バスは早朝出発し夕方までに目的地に到着する。

前売り券を発行する区間もあるがたいていは当日券を早めに買って席を確保しなければならない。座席は指定ではない上に人数分以上売るので席の争奪は激しいのだ。

座席は左に3人掛け、右に2人掛けで、一番後ろの席が6人掛けだった。
早いほうだった我々は余裕で2人掛けを確保し、これからの行程の打ち合わせを始めようとしたときだった。

アムハラ語でなにやら話しかけてきたおばちゃんに、アベベは快く席を譲ってしまったのだ。
(アムハラ語はエチオピアの公用語)

<なんという美談なんだ>などと私は感心などしなかった。
席を譲ったといっても、2人掛けの席をつめて3人目のおばちゃんがムリヤリおしりを割り込んで3人掛けにしただけだったのだ。

よく見るとほとんどの座席が当然のように1人分増えていた。
エチオピアではあたりまえのようであった。

席と席の間が狭い上に定員オーバーでギュウギュウのままの長距離ドライブは180Cmを超える2人の男にとってありがたくない状況であったが、なにやらニコニコと話しかけてはお菓子や果物をつぎつぎと差し出してくれたオバチャンを憎む気にはならなかった。

きれいに舗装されたアジスの町を出発し一路ジンマへとバスはすべりだした。

昨日できなかった、これからの行程の希望をアベベに説明した。

「行って見たいところや知りたいことが沢山あるんだ。
まずは野性のコーヒーノキを見てみたい。原産地がエチオピアだというコーヒーノキを見るためには、カファ州のジンマに行けばいいと日本の雑誌に出てたんだ。アベベは以前コーヒーの研究家と一緒にジンマに行ったって言ってたけど、ジンマってどんなところ?」

「ジンマの町から奥地の村まで行ったネ。そこの村に野性のコーヒーがあったよ。村では農園でコーヒーの栽培をしていた。採れたコーヒーは町までロバに乗せて運んでた。ジンマの町で計量してハラールへまとめて送るといってた。ハラールは人が最初にコーヒーを栽培した町だと研究家はいってたネ。」しっかりとアベベは覚えていた。

「ハラールからコーヒーはどこへ行くの?」

「となりのイエメンの港からアラビアに船で運ばれるよ。ハラールは昔からコーヒーの集積地として栄えた町だから、ジンマの次に行くといいね。」

アベベは最高のガイドだった。エチオピア人がみんなコーヒーに関してこんなことまで知っているはずもなく、偶然とはいえアベベのおかげで私のエチオピアでのスケジュールは簡単に決定した。

「ところで、最初にコーヒーを発見した人が誰かということは知ってる?」

「羊飼いのカルディーが見つけたよ。アビシニア高原の野性の木の実を食べて興奮している羊を見て自分も試して見たら全身に精気がみなぎったといわれているね。1500年ほど昔の話。」

後になって解ったことであるが、アベベの話はキリスト教徒の間で信じられている伝説で、イスラム教徒に言い伝えられている伝説は別のものであった。(右の絵はカウディーと羊たちを描いたもの)

それは、アラビアの回教僧オマールがイエメン山中に追放されていたとき、鳥がついばんでいた赤い実を食べたところ疲労が癒えたという伝説で、1258年ごろとされている。
しかし、どちらも伝説の域を超えないものの様であった。

(左の絵は回教僧オマールと鳥を描いたもの)

「コーヒー」という言葉の由来に関してもやはり2通りの説がある。

ひとつは、ここカファ州の名前からというもの、もう一つは、アラビア語で酒を意味する「カーファ」から来ているとする説である。どちらももっともらしく捨て難いが、どちらにしてもこれがエジプトに渡りコンスタンチノープルを経てシリアに入りトルコで「カーフェ」となりヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったというのが一般的である。

今では煎じて飲むことがあたりまえのコーヒーも、初期のエチオピアでは果肉のみを食べたり、豆を石臼で挽いたそうである。

今から1000年程前、世界で最初に文献に記されたコーヒーは、サラセン帝国の首都バグダッドの王立病院長をしていた名医ラーゼスが書いたものだ。

「エチオピアの地にいにしえより原生していた灌木のボン、その実のバンの豆を煮出した液のバンカムは陽気なさっぱりしたもので胃によい。」(ボンとはコーヒーノキのこと)

つまり、コーヒーは最初は薬としてその効能を認められていたのである。

薬として始まったコーヒーの飲用の歴史は、眠け覚ましの効果が見つけられると、イスラム教の僧侶たちに歓迎されるようになった。夜通し祈りを捧げる僧侶にとって貴重な飲み物として常飲されるようになったのだ。

秘薬として飲用されたコーヒーは門外不出とされ、15世紀半ばまで寺院内だけのものとして扱われた。

「やっと着いたヨ。ここがジンマね。」

うつらうつらしていた私はアベベの言葉で目が覚めた。
さあ、いよいよ、いにしえのナチュラルコーヒーとのご体面である。

 

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