第42話「玄随が初めて飲んだのは珈琲ではなくて...」



「少しお待ちくださいな、今、蔵書目録を見てみますんで...」

と、電話口で津山洋学資料館の係の方...

「すいませんお待たせしました。残念ですが、うちには西賓対語は見当たりませんなあ〜」

「どこに行けば西賓対語を見せていただけるか、お分かりになりませんでしょうか?」

「まあ、確かな事とは言えませんけど、宇田川家の資料いうたら、だいたい2ヵ所にまとめられてますんですわ。まず早稲田大学の早稲田洋学文庫、そして大阪の武田薬品さんの杏雨書屋の2ヵ所です。宇田川家は跡取りがなくなって結局没落したいうんですか、まあ、当時興味のある人が宇田川家の資料を引き取っていったようなんですが、現在ではその2ヵ所にかなりの宇田川資料が保管されているんですわ...。今うちで分かるこというたらそんなところです。」

「どうもありがとうございました、教えていただいた先で調べてみます。ありがとうございました。」


「じゃ〜タカシは、武田薬品さんへ電話で確認しなはれ、わてはインターネットで早稲田洋学文庫の蔵書を調べまっさかい...」

「OK!」


「どうだったラッキー、早稲田にありそうかい...?」

「いや〜、ありませんわ............ということはタカシの方も無かったっちゅうことやね?」

「そういうこと...  ああ〜どうしても見てみたいよね! ねえラッキー!...」

玄随が最初にオランダ人と対座した記録があることがわかったのに、それがみつからないなんて...
こうなったら西賓対語を確認しないと次へと進めない気分のタカシなのでした...

そして、ここから情熱的とも言える「西賓対語」捜しが始まったのでした。
その一部を紹介すると...


 

WEB CATで捜すがみつからず...
図書館司書の方に相談、国書総目録の存在を教わる
国書総目録にて西賓対晤が、国会図書館と東京大学にあること判明
原書なので解読困難と指摘される
何らかの解説書を捜しはじめる
再度WEB CATで、いろいろと検索してみる...カピタン、江戸参府、宇田川、等など...
検索された書籍を片っ端から当たっていく
最後に、最新の文庫本「江戸のオランダ人」を発見、期待して読むが西賓対語も珈琲も出て来ず...
しかし、その文末に掲載されていた「史料と参考文献」の中に、ついに西賓対語の解説書を発見
その文献が、広島大学にあること判明
広島大学の書庫の奥の奥に、ついに発見!

やっと見つけたその史料とは

この「古典研究第4巻」の中にある

「大槻盤水の西賓對晤」 森銑三著 であった。

寛政6年から文化11年までの21年間に6回参府した蘭人と対話したことを書き留めた記録が「西賓對晤」である。

寛政6年(1794年)4月22日に到着したカピタン一行との面会を願い出た、桂川甫周の願書から始まっていた。

その願書に同席を希望した医者の名前が5人載っている。



歴史に疎いタカシでも聞いたことがある有名な名前が列挙されていた...

確かに宇田川玄随の文字が確認できる

願書は4月29日に提出され、翌5月3日夜8時ごろ許しがでている

当時の5人の年齢は

大槻玄澤(盤水)38歳
森島甫斎(甫周の弟で桂川中良)41歳
宇田川玄随 40歳
杉田玄白  62歳
前野良沢  72歳

 

5月4日と5日の、2日間のやり取りの記録が残っている。

大半が医学的な質疑応答であるが、4日の記述の最後の部分にタカシの興味を引き付けた記述が見つかった!
その記述をそのまま紹介すると.....

座に葡萄酒があって、人々に勧めてくれる。カーブウェインとウィットウェインとの2種があるのを、各硝子盃で一飲する。口取の密漬けもあって、これをコンヒチュールといふ。大通詞の舎でもキンキップといふ密漬を出した。色の深緑の冬瓜を蒟蒻切で切ったもののやうで、上に氷糖を滲したやうである。新渡の品でこれまで見たことがなかったといふ。われらももとより始めて見るところだった。

残念ながら、珈琲に関する記述を見つけることはできなかった。

第2回の対談は寛政10年(1798年)に行なわれ、この時の史実も記載されているのだが、この前年1797年に宇田川玄随は43歳にして没している。


「とうとう珈琲が出て来なかったね、ラッキー」

「でも、ワインをふるまった記録がちゃんと残っていることが分かっただけでもなかなかの収穫やんか!異人さんが日本の医学者に母国の飲み物をその席上でふるまったということは、記録は無いけど、珈琲をふるまった可能性が十分あったといえるんちゃう?」

「う〜ん、まあ..あんまりすっきりとは、いかないけど、可能性が十分あったということで今回は終わりにしようか...?」

結局、岡山県人で最初に珈琲を飲んだのは誰か?それは、いつ? どこで? 
という疑問に対する明確な回答は発見できなかった。

わかった事をまとめると...

最初に飲んだ可能性があるのは、宇田川玄随。
1794年5月4日〜5日、江戸の宿長崎屋にて。ワインは飲んでいる。

次に可能性があるのは玄随の養子の宇田川玄真。
1802年3月4日、初めての長崎屋訪問。珈琲の記述無し。
1806年2回目の訪問。珈琲の記述無し。

1814年3回目の訪問 この時養子の宇田川榕庵を同席させている。

1816年、榕庵が哥非乙説を著わし、その味を「味淡薄、微甘」と記載しており榕庵はまちがいなく、1814年の訪問時に珈琲を体験していると思われる。

結局、新しい歴史の発見とはいかなかった。
延々と続く物語におつきあいいただいた読者の方も、つきあった割りに拍子抜けの感を否めないとは思いますが、当のタカシ本人が最も空虚な思いにかられていることをご理解下さいませ。

なんせ、たったこれだけの結論のため、約2ヵ月、10箇所以上の図書館や資料館を訪ね歩いたのですからまあ、こんなものなのでしょう...歴代の聡明な学者の方々が究明しきれなかった史実をそう簡単に解明出来る訳など無いのでしょう...

 

...と、ここまで書いて一端、岡山県人最初の珈琲飲みについて筆を置いていたのでしたが...

それから数ヶ月後のある梅雨空の日、一通の封書をタカシは受け取ったのでした

 

送り主は、津山洋学資料館の下山純正さんから...

封書の中には貴重な資料のコピーが入っていた

それは.....


榕菴雑録

榕菴雑録 : 宇田川榕菴自筆のメモ帳である。
         自らのコレクションリストが記されている文政年間の
         記録である。榕菴の収集品リストの中に「エンゲルセ        (イギリス) コッヒー」が含まれていたことが判る。

 

また、もうひとつ資料が入っていた。


觀自在菩薩樓随筆

觀自在菩薩樓は榕菴の書斎の名称である。

これもメモ帳のようなものと思われるが、その「茶会」の部分にこのような絵による珈琲に関連した記載が残っていたのだ。

エチオピアの珈琲セレモニーで使われていたような、取っ手のない茶碗。トルコのコーヒー器具のようなポットや砂糖入れ。

文字だけでなく、こうした榕菴直筆のイラストから当時の様子がはっきりと伝わってくる。

このような道具で珈琲を飲んでいたオランダ人から熱心に聞き出し、こうして榕菴はメモにまとめていったのだろう。

 

日本で最初に珈琲に関して正確にその道具のイラストを書き残したのは、津山の宇田川榕菴その人であった。

ここまで書いておいて、榕菴が珈琲そのものを飲まないわけがないとタカシは思うのでした。

まさに「味淡薄、微甘」との表現は、榕菴自身が体験し、感じたものを著わしたものに違いない!

みなさんもそう思われますよね?!

 

下山純正さんのお手紙によると、この2点の資料とも武田科学振興財団杏雨書屋所蔵だそうだ。

貴重な資料、情報を提供いただき、感激しまくりのタカシなのでした。

 

 

さて、次なる課題は「岡山県内の地で初めて珈琲を飲んだのは誰か...?」である。

岡山で最初のカフェはいつ、どこにあったの? 何という名前なのでしょうか?

そこで育まれた文化や歴史とは...?

 

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