第40話 「ついに宇田川の文字が...」
岡山県人として初めてコーヒーを飲んだのは、宇田川榕庵ではないだろうか?
真相を究明するためオランダ人の文献を調べ始めたタカシとラッキー
「ケンプエル江戸参府紀行」の次に取りかかったのは、25話でも出て来た
「ツンベルグ江戸参府紀行」であった。
ツンベルグ
「ツンベルグ日本紀行」山田珠樹訳注、雄松堂書店発行より
「あった、あった、『二三の通訳のみが珈琲の味を知っている位のものである』という記述をみつけたよ!<飲料>という項目の部分に書かれているから、すぐにみつかったんだ!」 おもわず、あったあったと声を出してしまったが、『珈琲』という文字を実際に見つけた喜びは、分厚い本をひたすら捜したことがある人じゃ〜ないと分かってもらえないと思います。 「その近くに、訪ねてきた医者も珈琲を飲んだとか、医者の名前とかのってまへんか?」 「う〜んと...、そんな事は書いてないみたいだな〜」 「じゃ〜、また『珈琲』という文字と『宇田川』という文字を捜して、最初からやね...」 という訳で、ひたすら文字を捜してページを繰るのでした..... その記述は、矢上という地域での昼食について書かれた中にみつかった... 「ねえ、ラッキー、ほらここ、ここ、ここにね... 『食欲を促すために、火酒を一杯飲んだ後に、我々は昼食をとり、 ...と書いてあるんだと思うよ。」 難しい日本語なので自信は無かったが、少なくとも珈琲を飲んでいたことはまちがいなかった。 さらに捜して行くと、大阪出発の所に次のような記述を見つけた 『人が我々を起しに来た時はまだ夜が明けていなかった。一杯の珈琲を啜り、バター入りのサンドイチを用意するのがやっとの時間しかなかった。』 どうやら、朝目覚めの珈琲を飲んでいたようだし、食後にも珈琲を飲んでいたようだし、この紀行からオランダ人たちが長崎から江戸まで、習慣的に珈琲を飲んでいた、つまり持ち歩いていたことが確認できたというわけだ。 「江戸で医者にあったとか、医者に珈琲を飲ませたなんていうのは、ないんかいな?」と、ラッキー 「残念ながら珈琲を一緒に飲んだという記述は無いなあ〜... 「ということは、江戸で医者に会っとったというこっちゃな?」 「そういうことだネ」 「なかなかの収穫でんがな。ツンベルグが江戸参府したのが1976年やから、榕庵が生まれる1798年の約20年前から医者が江戸にオランダ人を訪ねていたことが解ったわけや!」 「それに、オランダ人が、珈琲を携帯して毎日飲んでいたこともネ!」 ツンベルグ江戸参府紀行には、これ以上の情報は無かった。 フィッセルは1820年に来た書記である。 榕庵が哥非乙説を著わした1816年の6年後だが、榕庵に関して何か、わかるかもしれない... 珈琲に関する記述はすぐに見つかった。 『カピタンが携行する食料は葡萄酒及びその他の飲料、バター、チーズ、薫製肉、塩肉、珈琲、砂糖、香料、焼菓子、甘菓子、その他日本にて得難きもの。』 「これは、津山の学芸員の人が書いてた文章に出て来た内容と同じだネ。」 「これを参考にしてたわけや! で〜、榕庵のことは出てけえへんのかいな?」 「ちょっと待って................あった! あったよラッキー!」
「オランダ人の友人という記述として、『我々を度々訪問してくる仲間は、前記の通訳佐十郎、医者としてはボタニスクの別名を持つ桂川、玄澤、宇田川、長安、グロビウスの呼び名もある天文学者がおり、彼等は皆オランダ語を理解し、毎日1〜2の質問をしてきた。』と書いてあるんだよね?!」 「やっと、宇田川を見つけたわけや!ご苦労さん!」 「その後に注釈が載ってるよ。それによると、玄澤は大槻玄澤のこと、 「え〜? 玄真は榕庵の父でしゃろ? どっちかわからへんのかな〜?」 「というより、玄真も岡山の人だし、オランダ語が話せたわけだし、榕庵よりも年上だし、榕庵より先に珈琲を飲んだかもしれないとは、考えられへん? 哥非乙説を榕庵が書いたから榕庵が一番最初だと思ってたけど、江戸でオランダ人と会って珈琲を飲む可能性があったのは玄真のほうが先なんちゃう?」 「そりゃ〜そうやな〜...ということは、また最初から玄真さんを調べなあかんってことかいな?」 |
やっと宇田川の文字を江戸参府紀行から見つけたのに、
ひょっとすると榕庵より玄真の方が先に珈琲を飲んでいる
かもしれない...?という疑問が急浮上。
しかし、それだけでは終わらなかったんです。それは....