第54話「一番のみは、孫三郎? はてさて虎次郎...?」
おそらく倉敷一の有名人? 今でも多くの人々にその偉業の数々が語り継がれている... クラレを創設し、大原美術館を作った人...そう、その名は 「大原孫三郎」
「倉敷の地で最初に珈琲なるものを飲んだのは誰だと思う...?」 こんな質問を差し向けると、かなりの人が 「大原さんかな...?」 と、首をかしげながら答えることだろう... ちょっとした美術ファンなら 「ヨーロッパへ絵の勉強に行った児島虎次郎じゃろ〜...?」 と答えるかもしれない。 古き良き時代、倉敷でハイカラと言えば、大原家にゆかりがあるもの...とみんなが思い、また実際そうであったろう!
岡山での最初の珈琲飲みは明治3年、外人の住む洋館での事... 倉敷へ外人さんが入ってきたのは約10年後の明治12年。 そのとき、大原孫三郎は、どんな状況だったのだろう...?
幸いなことに地元倉敷に大原家に関する資料は充実している 資料から、大原孫三郎の年譜を見てみると...
そう! 明治12年には、まだ生まれていなかった... 若くして東京に遊学し、相当遊んだようだ... 明治30年ごろの東京での喫茶店を思い出してみよう...
1888年開業の「可否茶館」以後大正を向かえるまでに、記録に残っている日本の喫茶店はこの9件だけであった。 こうしてみると、当時はまだまだ珈琲店黎明期であり、孫三郎が東京で珈琲の味を覚えた可能性は低いと思われる。 ましてや、連れ戻されるときにわざわざ珈琲を持ち帰り、倉敷の人々に紹介したとは思えないのであるが、いかがでしょうか?
孫三郎の数多い資料に一通り目を通してみたが、やはり珈琲に関する記述を見つけることはできなかった。 念のためと思い、アイビースクエアーの中にあるクラボウ記念館の館長さんにもお会いしてお話を伺ってみたが... 「いや〜 私もそれほど詳細に孫三郎伝を読んだことがありませんし、珈琲に関して特別な記述があったようには記憶しておりませんな〜...」 という回答であった。
では、児島虎次郎はどうであろうか?
孫三郎の1つ年下だ... 若くして虎次郎は孫三郎と出会い、画家への支援を受けるようになる。 虎次郎の長年にわたる努力を見守っていた孫三郎は、この受賞を機に、さらなる勉強のためには虎次郎が切望してやまぬ欧州留学しかないと見極め、翌明治41年1月、5ヵ年の渡航留学の許可を与えたのであった。
虎次郎の欧州の記録は、「児島虎次郎略伝」児島直平著 に虎次郎の日記を元に詳細に残されている。 その記録の中に、「珈琲」の文字を探した........ 「児島虎次郎略伝」児島直平著 より
ベルギーのガン美術学校へ通う日常で、初めて出てくるカッフェの文字である。 その表現から虎次郎が日常的にカッフェに親しんでいる様が良く伝わってくる。 記録には残念ながら虎次郎がはじめてカッフェを体験した様子は語られていなかった。
もう一箇所カッフェに親しむ虎次郎の姿を見て取れる個所があった...明治43年のイタリア旅行のことである...
サンマルコのカッフェで友と語らう虎次郎の姿が浮かぶ... 虎次郎は大正元年(1912)11月26日、五年ぶりに故国の土を踏む。 その翌年の1月4日、虎次郎は孫三郎に招かれて会食をしているが、そのときに「土産に持ち帰った珈琲をみんなで楽しく飲む...」などという記録は残念ながら何も残っていなかった........ 孫三郎は洋風なものがあまり好きじゃ〜なかったのかな...? 虎次郎は何をお土産に買ってきたんだろうか? なんていろいろ考えながら、さらに資料を見ていくと、孫三郎の後を継いだ大原総一郎の珈琲にまつわる実話を見つけたので紹介することにします。 見つけた資料は「わしの眼は十年先が見える-大原孫三郎の生涯」城山三郎著である。 その中に記載されている2箇所の珈琲に関する部分を抜き出してみると........
無類の音楽好きであった総一郎と世界的版画家の棟方志功の残したコーヒー物語。 一日に60杯ものコーヒーを飲んだと言われているベートーベンの曲だったことは単なる偶然だろうか...?
もう1つ、コーヒーにまつわる物語を.... 倉敷のシンボル大原美術館の隣、蔦の絡まるアンチークな喫茶店をご存知だろうか? この喫茶店は、こんな風にして生まれたのでした.....
もしも、総一郎がコーヒー好きでなかったら、エル・グレコはなかったかもしれないのだ.... この話も、倉敷のコーヒー物語の1つであろう... この次エル・グレコに行くときは、総一郎の熱い思いを思い出しながらコーヒーを味わってくださいね!
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さて次回は、倉敷で最初の喫茶店を探す旅の始まりです。
倉敷の人々にとっての初めてのコーヒーハウスとは、どこにあったのでしょうか?